きものの歴史

小袖ときものの違いは? そもそも反幅の寸法の違いが大きい

今日は反物幅のお話です。

 

仕事柄もあって、服飾史や衣に関わる歴史を

紐解くことが多く、またこのジャンルが大好きです。

とにかくおもしろい。

 

その流れで、有職故実や装束の着付けを勉強したり、

資料をもっと“スラスラ”(笑)読みたくて

江戸オタク(笑)のクリエイター仲間と

変体仮名の勉強会をしたりしています。

ちゃんと大学の専門の先生から教わってるんですけど、

覚え悪すぎて申し訳ないっす^^;

 

 

で、私が平安時代や有職故実、装束を勉強し始めたきっかけは……

 

きもののルーツが小袖とは誰もが知っていることだと思います。

小袖——安土桃山時代が思い浮かびますよね。

 

では、それ以前は? 

それ以前は、実は「小袖さんは下着だった過去をもっているんです!」

 

いえ、装束の下着だったということなんですけどね(笑)。

白小袖を一番下にきて、単衣や袿、

男性であれば袍を着けていきます。

 

 

つまり、きもののルーツをさらに調べたかったということなんですが、

なんか、きものと装束って切り離されていて、

あまり交わるところがないのです。それは現在も。

あまり歩み寄らない、というより、

「お公家さん」のお家の方々は自然に

お公家さん文化が染み付いているんです。

 

偉ぶっているということではなく

それが当たり前として受け継がれているので多分、ご本人たちは意識がないんです。

そういうお家は七五三も羽織袴ではなく、

半尻(はんじり)という狩衣に似た童子用の装束を着けて

深曽木の儀という、碁盤から飛び降りるという儀式をします。

悠仁様もやっていましたよね。

 

 

そういうお家のかたは、よその家のことは知らなくて、

うちのカレーが当たり前みたいな感覚だと思います。

いきなり庶民的例(笑)。

 

小袖やきものは主に武家で発達した経緯があるから、

装束は公家の血筋のものという認識があるように思います。

 

だからといってきものを着ている私たちはもちろん、

「武家」出身だからと言って着ている人なんていませんけど(笑)。

 

皇室の方の礼装は洋服、儀礼的な式典では袍や十二単、袴などの

装束で、きものでないのは「武家」のものだからという巷説があります。

 

ま、それはさておき。

大河ドラマなどの小袖と、実際の小袖はまったく違うということは

なんとなくご存知のかたも多いと思います。

 

どう違うかというと――

まず、当時の座り方の慣習から触れると、

当時はまだ「正座」という座りかたをしていませんでした。

片方を立て膝にして座ります。

この座り方は、ドラマでも出てくることはありますが、

ドラマで着ている小袖では立膝はできないはずなんですけどね。

 

どういうことかというと、いまのきものの身幅で

立膝で座ることって、どうしたってムリがあります。

裾が割れるはしたない姿になるはずです。

 

では、当時は裾が割れなかったのか、

開かなかったのか、ということになりますが、

そうはならなかったはずです。

 

というのは、きものの身幅寸法が、

当時と現代とはまったく違うからです。

 

現存する最古の小袖は室町時代のものですが、

この頃の寸法は反物幅が45cmもありました。

画像が粗いですが、その小袖がこちら。

 

 

 

以前、松坂屋のコレクションを地元名古屋で

初公開(「小袖 江戸のオートクチュール」展)したときに

取材に行って際いろいろ伺ったときのことです(Vol40)。

 

そのときの学芸員・野場さんというかたがきもの好きで、

資料から当時と同じ寸法のきものを、

ご自分で、ミシンでですが、仕立てています。

その寸法の元が、先に紹介した現存する一番古い小袖の寸法です。

「ブカブカなんです」。ブカブカとは、

当時の布幅は45cm。そこに衽も付きますから、

「裾周りが2mにもなる」という絵画の説明も頷けます

 

 

 

桃山時代の国宝で、狩野長信「花下有楽図屏風」に描かれたものです。

当時の小袖を忠実に描いているといわれる絵です。

スカート状態。

でも考えてみれば、対丈で立て膝をし、さらに立ち働くわけです。

現在、身丈の足りないきものを「対丈で着る」というときに、

必ず問題になるのが着崩れ。

さらにそういうきものは大体、身幅も狭め。

動いていると裾が割れてきます。

 

でも、身幅が45cm。裾周りが2m以上もあったら

そういう心配はありません。

それでも立ち働く時は、短裳(たんも)という、

前掛けみたいなものをしているのを、

みたことがあると思います。念には念を、でしょうか(笑)。

十二単の後ろに長く引く「裳」の

進化系? 退化系?(笑) もしくは超簡略バージョン?です。

 

なので、ドラマでは小袖の腰下はシュッとしていますが、

実際はスカート状態のたっぷり身幅でブカブカだったのです。

 

江戸時代に入って、取引上の公正さを帰するために、

1625年、絹・紬の要尺が定められました。

曲尺で3丈2尺(約9.6m木綿は3丈4尺、

幅それぞれ1尺 4寸(約42cm)。(要尺の定めはその後、若干変化していきます)

 

当時は大工の使う曲尺(かねじゃく)なんですね。

江戸中期頃から鯨尺が出てきますが、

この鯨尺の導入の経緯がいまだによくわかっていないと

変体仮名を教えてくださっている先生が言っていました。

 

先生は文学博士で平安文学がご専門ですが服飾史も研究分野です。

賞を獲られた論文では、平安の衣装・仕立て・縫い物の

観点から文学を読み解いています。

 

反幅が安土桃山以前より狭くなっているとはいうものの、

42cmです。しかも当時の人は小柄ですから。

 

ということで、

ドラマで見る小袖は、実際とはまったく寸法が違うのです。

ドラマでは見栄えがするようにきものの反幅で仕立てた

小袖を着ているというわけです。

実際、機のことを考慮しても45cmで織るのは、いまは難しい。

 

ついでにいうと、いま袖は反物幅でとりますが、

当時は反物幅の半分から両袖をとっていました。

反幅が広いとはいえ、それでもやっぱり、

裄はとても短かったのです。

 

身八つ口もなかったので、腕の可動域も

そう広くなかったと思われます。

それで動いていたら、身頃が持ち上げられて、

それこそかなり着崩れたか、

もう脇に布たっぷり状態が常態、常だったのかもしれません。

 

利休の時代に正座が行われたともいわれていますが、

江戸時代に入ってから正座は一般的になってきます。

 

これは正座が一般的になって身幅が狭くなったというより、

身幅が狭くなって立膝ができなくなり、

正座が一般的になってきたと思うほうが

自然かなと思います。

 

でも不思議だなと思うのは機の変化です。

この対応ができたということですもんね。

このあたりはもう少し調べたいところです。

 

やがて反物幅は約36cmになるのですが、

現在は鯨尺で“しゃくいち”=一尺一寸=約42cm  という

幅もあります。基本、男物で対応ですが、

ユニセックスとして女性用でもOKですというものも多い。

細身・小柄な女性は、重くて、着にくいので、

よっぽど気に入った柄でなければ、

“しゃくいち”の仕立てはあまりお勧めしません。

 

それに、一尺一寸のユニセックスといえば、

大体、木綿、麻、綿麻で、夏物対応の生地が多い。

夏にそんなに、「縫い代」まで着たら(笑)

暑くてしょうがない、と思います。

 

ということで、今日も長々とでしたが、

こういう服飾史的なことを語らせると、

結構、止まらないくらい語っちゃいます(笑)。

 

そして今日の最後。

「小袖」は袂が舟形や長刀になっていますよね。

袖が「小さめ(短め)」だから小袖ではありません。

 

装束の「広袖」に対しての「小袖」なのです。

つまり、広袖は袖口全開、縫われていません。

それに対して、小袖は袖口を残して縫われています。

なので、襦袢は「広袖」となり、一般的なきものは振袖も含めて、

「小袖」になります。

 

 

 

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