日記・つぶやき

論理を越える「情緒力」という論理。その2

解散後、再び集合してくださった皆さん、ありがとうございます(笑)。
最近ね、ずっと思っていたことがあるんです。
賢い人、理論的な人は立て板に水で自己の考えや論理を主張するのですが、
どうも、それが腑に落ちない…というか、その人の立場や状況としては別に間違ったことではないのだけれど、スッと飲み込めない自分がそこにいる…こと、ないですか。
でもそれを真と疑うことなく主張する人に対してそれをどう言えばいいのか、どうそのときの自分の納得のいかない気持ちを説明すればいいのかが、もうひとつ分からなかったのです、長いこと。
でも、分かった。そういう人たちの論理って、「情緒力」が欠落しているから人の気持ちをなびかせることができないんだって。
昨日の夕刊で藤原正彦氏の記事をみつけたのです。
あの「国家の品格」を著した数学者です。彼が言うには――、
若い頃、米国に留学した頃ですが、論理ですべてが決まる米国社会が爽快に思えて、自己主張が苦手な日本人に否定的な見方をしていたというのですが、
40才を過ぎて英国に留学したとき、その考え方が転換したというのですね。
つまり英国は論理を強く主張する人は敬遠されて、むしろ伝統とか慣習とかユーモアが重んじられており、藤原氏の中で論理の地位が低下していったというのです。
「論理と言うのは立場によって何通りもある」
「どれも理があり、有る意味正しい」
(殺人が許されないのはあたりまえだけれど、戦争や死刑制度ではその論は違う観点になるのと同じでと、引いています)
あまたある正しい論理からもっとも適切なものを選び取るのは
論理の力ではなく、「情緒力」なんです

――と数学者の氏は言っているんですね。
何を優先させるかによってその人の真価が決まると言ってよい、と。
あーー、これだったんだ、自分が言いたくとも言えない「論理」。
なんか物事、一見、理路整然と説明する人に対して、人としての「感情」とか、「気持ち」とか、「情緒」とか、
そういうアナログ的な感覚は口に出しにくい、「客観的」じゃない、「論理」に対抗できるものではないと思うことって、ありませんか。
むしろ口にしたら負け、みたいな(笑)。
優先させるものはお金なのか、時間なのか、義理なのか、人情なのか、義務なのか、立場なのか…ま、確かに人それぞれだとは思います。
でも「数学の世界では論理の分かれ道にさしかかったとき、どっちに行くか見極めるのは「美的感覚」(!)なのだと氏は言います。
「美しい方に向かうとたいてい正しい」――泣ける言葉です。
「美しい数学ほど後世に有用となる」――機能美、みたいなことなのでしょうか。
長々と引っ張りましてゴメンナサイ。
でも、最近の日本人が失いつつある感性――、一時期日本人の欠点のように言われた白黒付けない気質は(もちろんケースによりますが)、やさしさに通じる柔軟性であり、社会を歪(いびつ)にしないバランス感覚なのかもしれないと、思えるこのごろです。
アナログ人間も、実は誉め言葉かもしれない。
はい、数学と美とアナログの三題話でした(爆)。

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