芝居・歌舞伎・ライブ

舞台衣裳の力。

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lionking

   

劇団四季劇場・春 で公演中の「ライオンキング」を観てきました。四季劇場の?落としで「ライオンキング」がかかったのは8年前。それ以来のロングランです。観たかったのですが、なかなか機会がなかったので、やっとです。
浅利慶太の好き嫌いはあると思います。曰く「すごいも何も海外で当たった公演だけをかけている」「四季のオリジナルはない」「金にあかして制作している」等々。ま、今回はそこは置いておきます。(因みに最近は四季オリジナルもかかっています。)
舞台衣装の力のすごさです。役者はもちろんですが、通常、人(役)の個性や性格は内面にあるものです。それを演ずることによってどれだけ際立たせることができるかが、役者としての真価でしょう。しかし、しかし、その手立てとしての衣裳は、実は半端なくものすごい、それこそ役割を担っている。
ライオンキングに関して言えば衣裳はある意味、小道具とクロスするところがあるかもしれない。しかし、役をシンボライズするデザインのユニークでいて、美しいことは、それだけでも観る価値があるというもの。写真は購入したプログラムを撮ったものですが、写っているサイ、キリンなどもすべて人が”着て”いるのです。
かつて「美女と野獣」を見たときはその衣裳の豪華さに、まさに四季だからできるのだと、半分辟易しながら思ったものでしたが(でもおもしろかったけど)、あれは背景としてはお城で、誰もがある程度もっているイメージを、虫眼鏡で光りを集める実験のように、一点に凝縮したことで濃厚なエキスとして観客に味わわせることができたといえる舞台でした。料理で言えば最高のフォワグラのステーキにトリュフをトッピングしたような。(食べたことないけど・笑)いえ、それはそれでプロの味なのです。もちろん。
ただ、ライオンキングはそもそも人間が演ずる「動物」という素材があるわけです。(キャッツもそうですが) 鮮度の高い素材はそれだけで美味しいとはいうけれど、本当のプロは下ごしらえに充分な手間ひまをかけてなおかつ、何事も施さなかったように皿にのせるものです。ライオンキングの衣裳は、動物そのものを具現化すればよいわけではない。演じるのはどうしたって二足歩行の人間なのだから。動物としての特性を特化させたうえで、演ずる人間の美しさをも伝えるものでなければならないのです。
もっともライオンキングの場合はものすごくかかっているであろう手間が、明らかに素材の裏側に見えましたが。(笑) 衣裳を制作する人たちの頭の中を覗いてみたいと思った、帰り道でした。

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