「きもの展」で気になった袴
とにかく物量がすごくて素晴らしくて、
入ってすぐの鎌倉時代の国宝の小袖からはじまり、
そして室町、安土桃山、江戸と、
ここまでの第1会場で時間とエネルギーを
使い果たしてしまっていました(笑)。
鎌倉鶴岡八幡宮所有の国宝・御神服5領のうちの
2領が前記と後期で展示されていました。
入ってすぐのところで、初っ端がこれだから
もう時間とるのはまちがいないわけです(笑)。
(装束の助数詞は(5)枚ではなく(5)領といいます)
この国宝の小袖は身頃の幅が左右違うのです。
気が付きました?
こちらです。前期展示の窠霰(カニアラレ)の袿↓ 図録から
こちらが後期展示の小葵鳳凰文の袿↓
研究者の友人が言うには、
理由はよくわかっていないとのこと。
布を無駄にしない仕立てだったのではないか……と。
寸法が普通より大きいのは神様に
差し上げる御装束だからということです。
1回目(プレスリリースも入れると2回目)は
文学者であり装束研究者の友人と
行ったので、まあ、興奮(笑)。
そんな風だから第2会場は
「閉館まで○分です」とのアナウンスで
駆け足で通り過ぎただけになりました(^_^😉
第1会場の展示は語ると尽きないのですが、
また次のブログででも。
4回目にしてやっと近代、現代の第2会場を
まともに見ました。
この中で高畠華宵の六曲一双の屏風図
「移り行く姿」(昭和10年)
ご覧になりました?
これは印刷物などで結構部分的に使われているので
見覚えがある方も多いと思います。
これは四季とともに移り変わる
女性風俗を描いたもので、
婚礼あり、女学生あり、水着ありで
当時のファッション情報満載の屏風図です。
この中で気になっている点があるのですよね~。
皆さん、気づかれたでしょうか。
たくさんあるのですが、
いちばん目につくのが袴の女学生。
4人います。4人とも靴です。
まず、座っている女学生が袴にベルトをしています。
このベルトはあまりおどろきません。
というのは、この女学生は
東京女子高等師範学校附属高等女学校
(現・御茶ノ水女子)の学生だなとわかるからです。
御茶ノ水の制服は今でもこのベルトが制服の
一部として取り入れられています。↓
で、お茶学生の上にいる、メガネっ娘少女。↓
彼女もベルト。しかしデザインがお茶ノ水ではありません。
じゃあ、おしゃれ? いえ、これは多分校章です。
ファーに隠れ気味でちょっと見にくいですが。
袴をいち早く制服に取り入れたのが跡見女子。
式服としては黒紋付に袴を着けるスタイルです。
これが1899年(明治32年)。しかし式以外は自由なものでした。
やがて平常服、つまり制服として制定されたのが
1915年(大正4年)、女学校初の制服でした。
しかし跡見はベルトがありません。
その後の制服として袴を取り入れた学校は
校章を付けたという記述や資料があります。
お茶ノ水のようなベルトではなく
バックルのようなタイプで、
袴の紐に通して付けていました。
三輪田学園の画像が残っています。↓
こちらも高畠華宵の絵。
もはや制服、袴というイメージが払拭されてますが(笑)。↓
ということで、メガネっ娘学生の
ベルト(バックル)の謎は校章です。
ところで、このメガネっ子学生、
アームウォーマーもしています。
これももう古い絵葉書でみたことが
あったので、そう驚きません。↓
アームウォーマーは一部でしょうが
すでにあったのですね。
アームウォーマーとは言わなかったと思いますが(笑)。
そして靴。つまり制服としての規定が
「靴」であったと考えるべきでしょうね。
次、その隣に行きます。緑のダブルリボンの女学生。
彼女も靴。そしてここでの注目ポイント!
袖口を見よ!
フリフリな袖口が覗いているではありませんか。
そう、きものの中にフリフリブラウスをインしているのです。
ちょうど男子学生がハイカラーのシャツを
下に着ている感じですね。
このフリルイン女学生の胸元がどうなっているのが
すごく気になりますが、絵では見えません、残念……ですが、
しかし、上で紹介した高畠華宵画の
制服の袖中を見よ!
この葉書もブラウスインしてますよね。
しかし、上の絵葉書の衿合わせは
普通にきものの衿合わせです。
ブラウスは完全に下に着ていたようですね。
さらにその右隣の女学生。
彼女こそが謎中の謎なのです!
繰り返しますが、めちゃ、謎なのです。↓
だって、袖口見てください。
こちらもフリルですが、先の女学生のように
インしているのではないのです。
きものの袖、そのものがブラウスの袖、
そのままのかたちとして付いているのです。
もちろん、きものと一体化しているので同布です。
これはどう分析すればよい???
昔から袖は動きやすいように、
袂を短くした薙刀袖(舟底袖ともいいます)は
よくありました。
小袖も下働きや手伝いとして立ち働く
女性の袖は動きやすいように薙刀袖でした。
袖に対して、そのような合理的で柔軟な
考え方をするのであれば、
それが究極、ブラウスの袖になったとしても……
かたちがきものであれば
きものといえなくはない(ぺこぱ風)ww
とにかく、どう見ても袖口だけ
絞っているという感じではなく
「ブラウスの袖」なんですよね~~。
これが謎すぎて謎すぎて、タノシイ!(≧▽≦)
温故知新。
私たちが思っているより、きものはずっと自由で、
ずっとおしゃれで、ずっと工夫されていたとつくづく思います。
きもののルールは面倒、難しいという考え方が多いのですが、
普段着はほんとうに自由だったのだなと思います。
思うに、洋装化の過渡期というのも
後押ししたのではないかと思うのです。
文字とおり、和洋ミックス。
男性のきものに帽子やインパネスという
洋風コートも当時のスタイルとしておなじみです。
これらは洋を取り入れる試みが
なされていた過渡期の現象だったのかもしれません。
昭和も後に下ると見なくなります。
きものはきもの、洋服は洋服という装いです。
ひとつ疑問は、洋を取り入れることに
先進的な意味合いをもたせていたのか、
それとも靴やブラウスをインするメリットや機能性を
なにか感じて取り入れていたのか……
ここはちょっとわかりません。
当時はまだ洋服のほうが高かったのと、
きものに慣れている体としては
きもののほうがずっと楽だったのです。
おもしろいですよね。
だから男性も帰宅すると、
洋服からきものに着替えるという
映画などでよく見る「波平さん」的な描写が多かったのです。
いまでは反対です。
さて、ここでひとつ問題提起しておきます。
絵画は絵としての見栄えを優先して
過渡な演出を描き込むことがあります。
実は資料とされる浮世絵も、エビデンスとされる
当時の新聞、雑誌でさえもそれがなくはないのですが、
そこは、点ではなく面で見る。
つまり、全体をみます。
過度な演出だとして、そして、1人の作家がしたことを
他の作家も、真似ることはあるかもしれないけど
すべてがそうとはいえません。
演出、デフォルメするにしても完全にデタラメではなく
基本があって、その基本を大げさに描く、
美的に描くということなので、
俯瞰すると見えてくることがあります。
研究者でもないのにエラソーですみません(笑)。
(でも一応、服飾系の学会に入っています(^_^😉
この屏風はほかにもとっても気になることが
いくつかあります。
当時の風俗を描いているので、
そこまで演出をねじ込んでいると思えません。
なので、それを考えると、
「え?」「これは……?」という点があります。
皆さんも図録を見てみてください。
本当は第1会場も語りたいことが
てんこ盛りあるんですけどねー。
図録でしばらくおかわりができそうです(笑)。
月刊アレコレはこんな服飾史がマニアックに好きで
きものや着付けにもやたらオタクな
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